2026.01.07
上野・アメ横という地で、90年代からスニーカーカルチャーの中核を担ってきたスニーカーショップ。”東京ローカル”を貫き、常に新しいことを仕掛ける姿勢は、ユーザーのみならず関係者からも絶大な信頼を集める存在です。そんな『mita sneakers』のディレクター、国井栄之氏に話を聞きました。
『mita sneakers』の歴史は大正初期まで遡ります。文京区の根津に草履や下駄の爪皮をつくる家業から履き物店へと発展した『三田の爪皮屋』がありました。爪皮とは、草履や下駄の爪先に装着し、雨や泥から足袋や指先を覆う部品のこと。
しかし、時代の移り変わりとともに家業に幕を下ろすことになり、家業を手伝っていた三田耕三郎(現『mita sneakers』の先代)が、かつての取り引き先であった靴問屋から草履や下駄の在庫を預かり、今で言うセールスレップのような事業に移行させました。それから間もなく、上野・アメ横で『三田商店』を創業し、小売業で再出発を果たします。これが『mita sneakers』の始まり。
『三田商店』でもしばらくは草履や下駄を販売していましたが、80年代に入ると商品構成のなかでスニーカーの比率が増えていきました。三田は今後を見据え、店名を『スニーカーの三田』へと変更し、スニーカー専門店へのリニューアルを英断します。その後、世間はスニーカーブームを迎え、現在のディレクター、国井さんが入社した90年代中期にブームが訪れます。その後、現在の店名『mita sneakers』へと変更し今に至ります。
屋台料理、乾物、青果店、鮮魚店、ファッションなど、商材の幅の広さも、上野アメ横商店街の売り。
上野はもともと、闇市として米軍の放出品や駐留米軍向けの物資などが流通した歴史から、デニムなどのワークウェアや、軍モノ、革ジャンなどのアメカジアイテムや輸入雑貨の専門店の多い、いわば舶来品の街でした。そういった背景からも、90年代の上野は、流行の源流になっていた、と国井さんは振り返ります。
「90年代は、インターネット黎明期で、公式の情報は雑誌などの紙媒体が中心だったので、月刊誌のサイクルよりも早く情報を得たい一部のマニアやバイヤーなどが、インターネットの掲示板や個人のスニーカー情報サイトなど、クチコミを頼りにしていました。原宿あたりのスニーカーショップは並行輸入なので日本未発売などの希少価値の高いモデルをプレミア価格で販売していましたが、アメ横界隈のスニーカー販売店は正規価格で販売していましたから、入荷状況を毎朝チェックしに来るお客様もいらっしゃいました。よく覚えているのは、運送会社のトラックが店の前に停まり、商品の入った段ボール箱が店前に下ろされると、新商品の入荷を期待してお客様が集まって来てしまうんです。今日は販売しません、と解散を促してから、開封、検品を始める日々でしたね。そういう意味でも上野は、スニーカー好きにとどまらず、バイヤー、メディアのライターやスタイリスト、最新情報を求める人たちが情報収集にくる街だったと思います」
国井さんがはじめて手掛けた上野シティアタックシリーズは、同じ上野のスニーカーショップの友人にも声をかけ、『ナイキ』にかけあった企画でした。スニーカーカルチャーにおいて革新的な試みでしたが、実は、スニーカーブーム終焉への危機感から立ち上げたものだったといいます。
「当時、スニーカーの別注といえば、アメリカの大手スポーツチェーンくらいで、日本ではポピュラーではなかった。エアマックス95を筆頭としたスニーカーバブルが弾けていったのを露骨に感じていた折、前例のない東京発信の新たな試みを、根拠のない自信と若さゆえの熱量だけで、『ナイキ』に掛け合いました。話を聞いてくれた『ナイキ』の担当者も、前例のないことへの挑戦に対して前向きでしたし、やってみれば?と背中を押してくれるカッコいい大人に偶然にも出会えたのは、本当に幸運だったと思います」
この『ナイキ』との取り組みを皮切りに、スポーツブランド各社と東京のストリートブランドとのトリプルコラボや、上野をテーマにしたコラボなど、”東京ローカル”という概念を取り入れた商品を次々と企画。初回のリリースこそ、メディア掲載が商品発売後になるなど、販促活動はスムーズにいきませんでしたが、リリースを繰り返し発売前告知が当たり前になると、発売日には長蛇の列ができるようになりました。やがて、社会現象にもなる転売ヤーへの対策として、抽選販売や、購入資格のドレスコード設定を導入し、世間の注目を集めます。
そして、『ナイキ』が、既存モデルのパーツを組み替えて新たなモデルとして復刻させるハイブリッド戦略を本格化させるなか、2007年に国井さんが開発段階からフィードバックに携わったナイキ トレーナー ダンク ハイが発売されます。『ナイキ』のエアトレーナー 1、ダンク、フリートレイルという各カテゴリーのエポックメイキングなモデルを融合させた革新的なこのハイブリッドスタイルは、人気モデルの復刻という既存の手法に、異なるモデルを高次元で融合させて新時代のアーカイブを誕生させるという、新しい方向性を示しました。国井さんはこの功績によって、ショップの枠を越え、さまざまなメーカーの外部アドバイザーとしての仕事を増やし、その後のキャリアを方向づけるとともに『mita sneakers』の人気を確固たるものにしました。
「功績のほうを称賛してくださる声がある一方で、ネガティブな意見や問題もたくさんありました。振り返れば、コラボスニーカーの歴史は販売方法の歴史です。『ア ベイシング エイプ』と『リーボック』とのトリプルコラボ商品の販売時、購入資格としてドレスコードを設定したことが、いろいろなメディアでも報道されて注目を集めました。今では当たり前の抽選販売でさえ、初めて導入したときには、買えなかった人から、店が客を選ぶのか、といったネガティブな意見がたくさんあがりました。僕らとしては純粋なスニーカーファンに商品を届けるためにはどうしたらいいかを考えて、不満や批判的なの声が上がるたびに、それをどう解消していくか、試行錯誤してきました」
人気店ゆえ、他地域への出店依頼は数多。ビジネスとしていろいろな可能性を模索しながらも、結果的に多店舗展開しなかったのは、上野という立地が重要なアイデンティティになっていたことが大きいといいます。その後、インターネット販売の普及によって、実店舗の在り方を再考した結果、現在まで”東京ローカル”を貫いてきました。
2013年リリースのNIKE AIR MAX 95 "PROTOTYPE" "mita sneakers"は、AIR MAX 95のデザイナーであるセルジオ・ロザーノ氏のデスクに置かれたスケッチ画から着想を得て具現化し、世界のスニーカーフリークの間で話題となった幻の一足。同モデルの試作品と同じブラックで配色されたシュータンが特徴で、ライニングには上野のアイコンとしてさまざまなモデルに使用されている桜の花弁とUENOのフォントが融合したオリジナルロゴが刺繍で刻印されている。
2018年にはラグジュアリーブランドの『ジバンシィ』からの依頼で、コラボレーションスニーカーをリリースしました。『ジバンシィ』側が世界で3名を選出したうちのひとりが国井さんだったそうです。
「ブランド側から突然連絡があって、『ジバンシィ』のスニーカーの原型についてフィードバックが欲しいと依頼されました。先方の担当者がフランスから上野まで来てくれるというのでお会いして、普段の仕事同様に、気になる箇所や改善案を率直に伝えました。ミーティングを終えたその1時間後くらいに、改めていろいろな話がしたいので新宿のホテルでこれから会えないか、と電話連絡があったんです。最初、新手の詐欺かと思いましたよ。コラボレーション詐欺(笑)。今振り返ると最初のコンタクトで僕のフィードバックや、スニーカーに対してのスタンスを試されたのかなとも思います。ホテルの大きな会議室に通されると、そこには実際にクリエイティブディレクターに就任されたばかりのクレア・ワイト・ケラーさん本人が待っており、会話の中で、表面的ではない当時のスニーカーカルチャーへの理解と興味、そして僕らがこれまでやってきたことへのリスペクトを感じられたので、その場で依頼を快諾しました」
この企画においても、東京、ひいては日本、そして『mita sneakers』らしいテーマを『ジバンシィ』のクリエイションと見事に融合させました。
昨今、注目を集めているのが、国井さん個人が外部ディレクターを務めるショップ『へリンボーンフットウェア』です。アパレル大手のベイクルーズによるフットウェア専門業態で、虎ノ門ステーションヒルズという立地、客層は『mita sneakers』と異なるからこそ、携わる意味を感じるといいます。
「過去のスニーカーシーンは男性客が中心でしたが、『ヘリンボーンフットウェア』の商品セレクトはジェンダーニュートラル。虎ノ門という立地も上野とはまったく違います。衣・食・住・美の領域でさまざまな知見のあるベイクルーズの運営ということも興味深かったです。そして、自分は、スニーカーにまつわるさまざまな仕事をしてきましたが、ゼロからスニーカーショップを立ち上げるという経験はなかったし、『mita sneakers』とはベクトルの異なる方向性だったのも大きかったです」
長きにわたる店の運営、数百にのぼるコラボスニーカーの開発、メーカー各社への外部アドバイザーとしての関わり、ラグジュアリーブランドとのコラボレーション商品開発、アパレル大手によるスニーカーショップのディレクション……。さまざまなチャンネルで仕事をするからこそ見えてきたものとは?
「『mita sneakers』に関しては、若者だけでなく、長年通ってくださるお客様もたくさんいます。昔を知っているお客様が久しぶりに足を運んでくれたり、新しい家族を連れて来てくれたりするのは、ずっとこの地でやってきたからこそ。これからも変わらず在り続けることの意義を感じています。コラボ商品については、組み先がスポーツブランドでもラグジュアリーブランドでもスタンスは変わりませんし、いま流行っているから、とか、気分だからというノリでものづくりをすることもありません。『mita sneakers』や『ヘリンボーンフットウェア』の商品セレクトについても同じです。僕らが関わる意味や意義は、協業先にそれまでなかった新しい価値観や概念をもたらすことだと今も変わらず思っているし、ブレずにそれをただやり続けてきた。スニーカーを好きでいてくれるお客様をはじめ、これまで僕らをフックアップしてくれた諸先輩方、『mita sneakers』に関わってくれたそれぞれの分野のプロのみなさん、すべての恩に報いるための進化は、これからも変わらずに、惜しまず続けていくつもりです」
国井さんは続けます。
「コラボレーションという観点から、『mita sneakers』や自分を取り上げていただく機会が多いのですが、僕らはブランドではなく、あくまでショップなので、各ブランドが世に送り出した素晴らしいインラインモデルの魅力を、僕らなりのストーリーテリングでお客様に販売することが、昔も今も一番の使命であることに変わりありません。オンラインショッピングが当たり前になった今こそ、店頭で商品を直接ご提案することが、微力ながら、お客様のスニーカーに対する視野を広げるお手伝いになると思いますし、そういった地道な活動こそが、今後のスニーカーシーンにとっても重要になると思っています。一方で、僕個人としての仕事や活動は、今までに経験のないことや、『mita sneakers』とはまったく別軸で考えられることに挑戦し、進化していきたい。変化しない美学がある一方で、進化はし続けたいと思っています」
変わらない美学と、進化する美学。物事の本質を捉える卓越した能力は、ものづくりにも、仕事の流儀にも生かされていた。
東京の下町である上野から世界へ向けて独自のスニーカースタイルを提案する『mita sneakers』のディレクター。スポーツ、アウトドア、ファッション、ラグジュアリーといったさまざまなジャンルの世界的プロジェクトや、国内インラインのディレクションなどに、多岐にわたって携わるスニーカー業界の最重要人物。虎ノ門ステーションヒルズにオープンした『ヘリンボーン フットウェア』の外部ディレクターも務める。

