「音楽喫茶」は1920年代にレコードで音楽を聴くために生まれた、日本独自の喫茶店のスタイル。音楽はBGMではなく、空間の主役。来店者はコーヒーを飲みながら大音量のレコードの響きに身をゆだね、クラシック音楽やジャズの世界を満喫します。 東京の代表的な名曲喫茶、ジャズ喫茶、そして最新のレコード喫茶を訪れ、時代を超えて人々を魅了しつづける「音楽喫茶」の魅力に触れてみましょう。
「名曲喫茶」はクラシック音楽の鑑賞に特化した喫茶店です。店内に多数のクラシック音楽のレコードと音響装置を揃えて大音量で流しており、お客は会話を交わすことなく静かにレコードに耳を傾けたり、書物のページをめくったりしています。
落ち着いた空間は音楽を心ゆくまで楽しむことを目的に設計されており、多くの場合、椅子は映画館のようにすべてスピーカーに向けて配置されています。そんな名曲喫茶のレジェンドと呼ばれる存在、『名曲喫茶ライオン』へご案内しましょう。
渋谷スクランブル交差点から徒歩10分、道玄坂の百軒店エリアに入ると風景は一段と猥雑さを増します。ここは渋谷で最も古い歴史をもつ商店街。その一画に、時の流れが止まったような3階建ての木造建築『名曲喫茶ライオン』が姿を現します。扉を開けて足を踏み入れてみましょう。渋谷に残っているのが奇跡のような異空間が広がります。
ほの暗い空間に響き渡るクラシック音楽。そこに鎮座するのは巨大な音響装置です。吹き抜けに高さ3メートルもの堂々たるスピーカーがそびえ、シャンデリアの光の粒がきらめいています。フロアの椅子はスピーカーに向かって並んでおり、お客は無言でコーヒーを飲みながら、ある者は音楽に耳を傾け、ある者はひっそりと物思いに耽ります。ここは私語禁止、撮影禁止の空間なのです。
所蔵するレコードやCDはあわせて約1万枚。もし気が向いたら、聴きたい1曲を店員にリクエストしてもOK。単に「バッハ」とだけリクエストする人もいれば、曲名のみならず指揮者と楽団、演奏年にいたるまで細かく指定する人、レコードを持参する常連客もいるそう。毎日15時と19時は、月替わりで店員がセレクトした1時間ほどのレコード・コンサートの時間と決められています。
70年もの歳月を経た巨大なスピーカー。その左右の大きさが違うことにお気づきでしょうか。よく見ると右側のスピーカーのほうが円が大きいのです。その理由を4代目にあたる店主・山寺直弥さんが教えてくれました。
「スピーカーを含む音響装置は、古くから常連客だった東芝の技術者が“作らせてほしい”と個人的に設計をかって出た、ライオンのためのオリジナルです。当時のレコードはモノラル録音が主流だったので、ステレオ風に聞こえるよう工夫を凝らした。オーケストラの配置は、左側にヴァイオリン、右側にチェロやコントラバスなど低音部を響かせる楽器が並んでいるでしょう。その聞こえ方をスピーカーの左右の大きさの差で立体的に表現しようとしたんです」
なんとかしてお客に良い音を聴かせたい――そんな熱意が伝わってくる、驚きの発想ですね。
小さなイヤフォンに慣れた私たちですが、名曲喫茶に座っていると、音楽が鳴り渡る宇宙に頭のてっぺんからつま先まで全身で没入する喜びを味わえます。名曲喫茶は「耳だけではなく、皮膚も音楽を聴いているのではないか?」と思わせてくれる空間。それはまた、心に響く音楽体験を店内にいる見知らぬ誰かとささやかに共有する時間でもあるのでしょう。
「音楽喫茶」の歴史は1920年代に遡ります。当時、日本には西洋文化が流入するようになり、クラシック音楽やジャズが人気を集めていました。音楽喫茶はこれらの音楽をレコードで流しながらコーヒーや軽食を楽しむ場所として、東京や大阪などの都市部で誕生します。
当時は音響設備も輸入レコードも非常に高価で、庶民には手が届かない憧れの品。さらに、木造の民家が密集した都市部では、自宅で大音響のレコード鑑賞できる環境も整っていませんでした。
「音楽喫茶」は1950年代から60年代にかけて最盛期を迎え、クラシックやジャズ以外にも、フォーク喫茶やロック喫茶など多様な専門店が登場します。しかし70年代以降、家庭でも気軽に音楽を楽しめるようになるとともに、音楽喫茶は徐々に衰退していきました。
2000年代後半に入るとアナログレコードが復権を果たし、音楽喫茶も往年のファンに加えて若いファンを獲得します。その背景には、長く続く昭和レトロブームや、デジタル化への反動としてアナログ回帰のほか、アート性の高いジャケットやレコード盤を所有する喜びといった物質的な満足感も挙げられます。
「ジャズ喫茶」とは、レコードとハイエンドの音響装置でジャズを鑑賞することを目的とした喫茶店です。1960~70年代、有名ジャズ喫茶には欧米のジャズ情報に詳しいオーナーが存在し、最新の輸入レコードと音楽情報を求めるジャズファンがお店に集まってコミュニティを形成していました。当時のジャズ喫茶は単なる音楽鑑賞の場を超え、若者文化やアートシーンの拠点、また政治運動の拠点ともなったのです。当時は音楽鑑賞に集中するため、店内はほぼ私語禁止でしたが、現在では自由に会話できるジャズ喫茶も増えています。
『いーぐる』は1967年の開店以来、真摯にジャズを紹介するスタイルを貫いてきました。近年は飲食店としての機能を充実させながらも、開店から夕方6時までは私語禁止タイムを設けています。
コロナ禍以降は、大音量のジャズに包まれながら仕事に集中する客の姿が増えています。彼らにとっていーぐるは、隣席の会話にじゃまされることなく没頭できる空間。コアなジャズファンではなくとも、「ジャズ喫茶」は居心地のいい場所なのです。
店主の後藤雅洋さんはジャズ評論家として活躍し、時代の変化に柔軟に対応しながらジャズの魅力を伝えてきました。「ジャズ喫茶の存在意義は、ジャズという音楽のおもしろさを伝えることだ」というのが彼の信念。
所有するレコードとCDは合計10,000枚以上。ジャズ喫茶店主の役割は編集者的だ、と後藤さんは語ります。
「店主の趣味で選んだ音楽を聞かせるジャズ喫茶があってもいいが、『いーぐる』では音楽制作者の意図をわかりやすく紹介し、新旧の幅広いジャズとリスナーの架け橋になるよう意識しています」
そのためにプレイリストを緻密に練り上げ、緩急をつけて約2時間の快い音楽の流れを構成。多様なジャズアルバムに偏りなく対応できるようオーディオ装置を構成し、自然なサウンドを実現しています。店内は音の多重反射(フラッターエコー)を防ぐため、天井に傾斜をつけ、床に段差を多く設けているので、どの席に座っても同じように音楽が楽しめます。
アメリカやヨーロッパでは、ジャズはもっぱらライブ演奏で楽しむのが主流。しかし近年、日本独自のジャズ喫茶文化が海外から注目されるようになり『いーぐる』には世界中から人々が訪れています。さらに、ジャズ喫茶にインスパイアされたリスニングバーが各国で誕生するなど、新たな広がりを見せています。
2020年代に生まれた「レコード喫茶」は、各テーブルにレコードプレーヤーとヘッドフォンを設置。お客は店内にあるレコードを自由に選んで試聴することができます。店内全員で同じ曲に耳を傾けるのではなく、各自が好きな音楽を聴くという、いかにも現代の東京らしいスタイルです。お店によっては、プレーヤーの操作方法を知らない人のために丁寧な操作説明書をプレーヤーに添えています。
『PHONO Shibuya」は2024年に誕生したレコードカフェ。各テーブルにプレーヤーとヘッドフォンが配置されており、来店者は好きなレコードを試聴しながら軽食やドリンクを楽しめます。レコードをターンテーブルにのせ、針を落とすことが初体験という人もいるでしょう。
「実際にレコードに触れてアナログの音の魅力を感じてほしい」とオーナーは語ります。店内のレコードは購入も可能。
レコードはほぼ月替わりでテーマを設定し、テーマに合わせたカフェメニューとのペアリングを楽しませてくれます。「昭和100年」を記念した80年代アイドル特集期間中は、ナポリタンなど昭和の純喫茶メニューを展開。
各種のイベントも開催。『PHONO Shibuya』はレコード音楽を通してコミュニティが生まれる場所――「コミュニカフェ」を目指しているのです。
日本で生まれた音楽喫茶。そのルールは店によって異なり、完全な私語禁止の店もあれば、自由な会話を許可する店、特定の時間帯のみ私語を制限する店などさまざま。多くの音楽喫茶では、店内ルールをメニューブックや壁、ドアなどに明示しているので、必ず確認してから楽しみましょう。
ライター、喫茶写真家。2000年から全国のカフェや喫茶店の取材を続け、多数の著書を上梓。主著に『京都古民家カフェ日和』(世界文化社)、『新・東京の喫茶店』(実業之日本社)、『鎌倉湘南カフェ散歩』(祥伝社)など。
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