実は「喫茶店」のスタイルは日本独自の文化。戦後、セルフサービス式のカフェが主流となる中、喫茶店は注文した飲み物や料理を店主やスタッフが席まで運び、落ち着いた空間でゆっくりと楽しめるのが特徴です。そんな喫茶店は、昔ながらの古き良き日本を伝える場所として根付いています。喫茶店が多い街として有名な神保町の最古の喫茶店と言われる「さぼうる」で、喫茶店の楽しみ方や魅力を聞いてみました。
日本の喫茶店が海外でも注目されるようになったのは、2000年代に起こったコーヒーブーム「サードウェイブ」の代表格ともいわれるブルーボトルコーヒーの創業者であるジェームス・フリーマンが言及したことからではないでしょうか。彼が好んでいる日本の喫茶店文化の特徴的な良さについて考えてみました。
たとえば、着席してから会計まで席を立つことのないフルサービスにも関わらずチップが発生しないこと、個人店ならではのマニュアル化されていない臨機応変なやり取り、注文を受けてから一杯一杯、丁寧にその人のためだけに淹れられる珈琲……。商売ではあるものの、血の通ったあたたかい気持ちをそこに感じるのです。
技術が発達して、今では機械が淹れてくれる珈琲もじゅうぶんに美味しくなりました。しかし、以前喫茶店主に「毎日、どんなことを考えながら珈琲を淹れているのか」と尋ねたときに返ってきた 「注文した人が飲んで『美味しい』と思ってもらえるように」というあたたかく印象的な言葉は、「誰かのために」という気持ちがある人だからこそ。
一軒一軒違う趣向を凝らした、まるで店主のリビングに招いてもらったかのような面白さがある内装、どんなもの食べ物が出てくるのか構えることなく食べられる馴染みのあるお手頃な価格のメニューたち、時には店主たちとの何気ない会話を楽しむことも含めて、付加価値こそが喫茶店の醍醐味であると考えています。
店主の好きなものや野望、夢などがあちこちに見てとれる喫茶店という空間(個人経営店の多くがそうかもしれません)。喫茶店の内装は大きく「クラシック」、「ゴージャス」、「モダン」、「スペーシー」、「ファンタジー」、「アットホーム」と、 私は6タイプに分類して考えていますが、さらに「クラシック」タイプの中でも「山小屋系」といえば、神保町にある「さぼうる」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
今ではこの土地で最も有名な喫茶店で、創業者である鈴木文雄マスターは2021年に亡くなってしまいましたが、長年働いている伊藤雅史・智恵夫妻がその想いを継いで今も憩いの場を守り続けています。
2006年、音楽好きの雅史さんは、憧れのミュージシャンが「さぼうるのナポリタンが美味しい」と言ったのを聞いてアルバイトに応募。その数年後、一緒に働くこととなった智恵さんとの結婚をきっかけに社員となり、長い年月を経て、さぼうるの二代目店主となってその歴史を紡いでいるのです。
二人にとって先代のマスターは「親より一緒にいた存在。師匠のようなもの」といいます。内装デザインは鈴木マスターとの共同経営者だった方によるもので、津田沼にある「珈琲屋からす」もその方が手掛けたそう。茶色を基調にした木材のあたたかさを感じる山小屋風の店内で、半地下、一階、二階と客席に層があるのが面白いところ。
鈴木マスターが晩年よく腰掛けていた窓際の特等席の窓には、二階まで伸びる草木がよい目隠しになっていて、今は電気ヒーターが置かれている暖炉の周囲には、こけしやマトリョーシカ、提灯にひょうたんなど各国の土産物が所せましと並べられています。智恵さん曰く、「さぼうるらしさは、何でも受け入れるし、誰でも来られるけれど、最初は不思議に思うところ」。
背の高いオリーブの木、今では珍しくなった赤い公衆電話、無造作に飾られたビールの樽、繊細な音色を奏でる季節はずれの風鈴、枯れた姿さえも哀愁を感じるほおずき、あまりにも存在感があるトーテムポールなど、ここはいったい何の店なのだろう?と気になった人たちが立ち止まる様子をよく見かける外観。古書街の狭い小道にぽっかりと浮かんでいるような秘密めいた空間は、自分だけが見つけたユートピアだ、という気持ちを誘うのでしょう。
隣接する姉妹店の「さぼうる2」では二人前はありそうな大盛りのナポリタンなど、喫茶店王道の食事メニューを求める人たちで昼時は長蛇の列が。軽食をメインとする「さぼうる」の直近の看板メニューは「7色のクリームソーダ」。長らく緑色、赤色、青色、黄色の4色でしたが、鈴木マスターが面白がったことから紫色とオレンジ色が追加されて6色に。さらに絵本『なないろのクリームソーダ(ケンエレブックス)』(イラスト:oyasmur)の出版をきっかけに、白色が加わり、7色となりました。「推し色」という言葉も一般的になった現在、好きなアイドルやキャラクターに合わせて、その日注文する色を選ぶ人が多いそう。
朝昼晩、時間帯を問わず、自分の空腹具合や懐と相談して、好きなメニューを選べるのも喫茶店のいいところ。喫茶店という場所は、ただ飲食するだけではなく、その空間を珈琲一杯の金額でしばし借りて、思い思いに過ごせる、職場や学校などと自宅の間にある「もうひとつのリビング」なのだと考えています。そこに居合わせた人たちは、挨拶を交わす間柄だったり、二度と会わない人たちだったり……。珈琲の水面にミルクを垂らしてスプーンでくるくるとかき混ぜたときの模様のような、なんとも刹那的な一瞬の交わりが愛おしい。
果実のうまみを十分に感じる濃厚ないちごジュースも人気。
「基本的には周りに迷惑をかけなければ、どんなふうに過ごしてもらってもいい 」と智恵さんは言います。スマートフォンの登場以降、大きく変化した訪れる人たちの過ごし方。 携帯電話の所持が一般的になる前は、誰かと待ち合わせをするのも容易ではなく、意思の疎通は実際に顔を合わせて行うことが多かったことでしょう。喫茶店にやってくる人たちの目的も、置かれている新聞や雑誌を読んだり、タバコを吸って時間を潰したり、仕事の打ち合わせや親しい人たちとのおしゃべりだったり……。
しかし、現在は手の中にあるスマートフォンでだいたいのことは出来てしまうため、暇を持て余すことなど、滅多になくなってしまいました。二人で訪れて向かい合っていても、それぞれが画面の中をじっと見つめている風景も日常で、時代の流れとはいえ、少し寂しくもあります。昔はそれをたしなめるユニークな店主も多くいたようですが、だんだんと店側と客側の距離感も変わっていったのです。
喫茶店と言う場所は、その国の暮らしや文化も同時に伝えてくれる街の窓口のような場所。店主の人生そのものといっても過言ではない大切な場所にお邪魔するからこそ、その場所ごとのルールに則って誰もが気持ちよく過ごしたいものです。
東京喫茶店研究所二代目所長。「昭和」の影響を色濃く残すものたちに夢中になり、当時の文化遺産でもある純喫茶の空間を、日替わりの自分の部屋として楽しむようになる。時間の隙間を見つけては日々訪ね歩いたお店の情報を発信。純喫茶にまつわる書籍は13冊。
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